身体感覚が切り拓く生きている実感
戦争もない。宗教もない。国家や地域など、共同体感覚、即ち、
大きな物語が失われた現代において、
我々は何を拠り所にして、生きていけばいいのだろうか。
1999年のエドワード・ノートン、ブラッド・ピッド主演の映画『ファイト・クラブ』では、
大きな物語を失い、生きる実感を得られない大人の男たちが、
ファイトクラブという地下格闘技場をつくって、素手で殴り合う。
殴ることではなく、殴られることに意味があり、
殴られて感じる痛みが生の実感を味わわせてくれる。
痛みという身体感覚。
身体への繋がりが、生の実感、実存につながる。
身体感覚。
ファイトクラブが拡大したある日、宿題として、ケンカをふっかけて負けろというお題が出される。
(うる覚えのため、間違っていたらごめんなさい。)
負けて、痛み、苦しみを味わえ。苦痛というネガティブな感情を味わえ。
身体で感じろ。それが生の実感につながる。
そのように、私は解釈した。
ただ、『ファイト・クラブ』の映画では、その後、ファイトクラブがテロリスト集団と化し、
それぞれが固有の物語をもつのではなく、自分の物語を殺し、
テロリスト集団の価値観(一つの価値観)で生きていくことになる。
テロリスト集団や現代のポピュリズムに対する皮肉に思える。
痛みや苦しみといった身体感覚を出発点に、
自分の物語(自分固有の生きる意味)を作り上げていく。
映画『ファイト・クラブ』では、エドワード・ノートン演じる主人公がテロリスト集団に拉致された女の子を救出しようと
もがくが、恋や愛はその人固有であるという点において、その人固有の物語を生きていると言える。
身体感覚を磨き、愛を信じ、自己固有の物語を生きていきたい。